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​Activities

             

 

 

 

 

 

個展を開いたカフェハンモックはカジュアルな雰囲気の店である。コーヒーや紅茶はもちろん、ビールやカクテルなどアルコールも置いてある。店内は昨今珍しい喫煙可(スタッフの大半が喫煙しているしね)、シーシャも扱っている。店内の壁はコルクボードで手作り感溢れ(実際社長の小長谷さん自らによるリノベーション)、店内には名前の通りハンモックがぶら下がっている。ホワイトキューブではないしノイズが多いと言ってしまえば多い。

ここを展示場所に決めたのには、ホワイトキューブへのアンチテーゼや日本におけるアートと生活の乖離という問題についての提起もできるのではないかと期待したのもある。ホワイトキューブにアート作品を置いて格好良く見えるのは当たり前だが、ホワイトキューブのような家は数少ない。カジュアルな空間に作品を置いた時にどう見えるのか。空間に負けないのか。作品として成立するのか。

私が普段やっていることは現実なのだろうか。リアリティを伴ってこの世界にきちんと存在しているのだろうか。

私のような学生や、まだ無名のアーティストが展示というものを開くとき、そこにはとても高い割合で「自己満足」になりうる危険性が存在している。そこには今回は突っ込まないが、それでも私たちはこれが最終的に自己満足だったのかどうかという視点も持って反省していくことが必要である。その視点でいくと、今回の展示は最終日のクロージングパーティでもって多少はそのテーマについて救われたと考えている。それどころか、今回の展示自体のテーマ、「暗黙知」ということについては、最終日のあのパーティーの場で持って関係したという実感がパーティの次の日にどこからか浮かんでから、いまになってみてもその思いはさらに強く、確固とした考えであるように思えてならない。

 

そのクロージングパーティも踏まえて、ここの場所でのこの段階でのRIkakoの展示という意味では、今できることの全てをやりその結果を提示できたのではないかと思う。

美意識という問題について。

純粋性という問題について。

学問としての美術という立場について。

もちろんホワイトキューブでできたこと、ここではできなかったこと、これらの問題については、逆に今回の展示を通して生まれてしまったものであり、次に回復、挑戦したい。この思いは、設置時から最後まで拭えなかった欲求不満であり、これからのモチベーションにも大いになるはずだ。

 

しかし在廊中に来た人々(知り合いも、カフェの客も)を見ていて感じたのは、やはりここで展示を開いたことによるメリットだった。カフェハンモックは普通のいわゆるカフェよりもさらにくつろげる空間となっている。キャンピングチェアやハンモック、ソファ。靴を脱いで寝っ転がれるところもある。そこで靴を脱いでくつろいで、ドリンクを飲みながらぼーっとしたり話したりまたぼーっと作品を視界に入れたりキャプションを読んだり。なんだかんだとみんな1時間は滞在していくのだ。作品を見てもらいたいから展示するアーティストにとって、そんな嬉しいことはないんじゃなかろうか。ギャラリーならそわそわして肩が凝って疲れてしまうこともザラだと思うんだけど、休憩しながらぼーっと、それでも長く作品を見る。そういう見方でしか鑑賞できない作品はあるのだ。

クロージングパーティーは楽しかったなあ。アルコール、タバコ、美味しいご飯とそれから音楽。何かしらの空間と時間の共有。それは言葉にはできないながら確かにある一つの方向を全員がむけ、感じられているという感覚(錯覚だという人もいる、もちろん)。

 

 

この最後の最後での思わぬ展開によって、私はこの展示が成功だったと結論づけることができる。

 

​暗黙知

 

2018.8.17 Rikako

個展「暗黙知」について

身体性におけるアイデンティティの回復を図った結果として残ったカスについて

フライパンと皿についての考察

Paintings

 暗黙知

 

 

「暗黙知」とは、マイケル・ポンラニーが1950年代に提唱した哲学概念である。「知識というものがあるとすると、その背後には必ず暗黙の次元の『知る』という動作がある」(『マイケル・ポランニー「暗黙知」と自由の哲学』 / 佐藤光著 講談社, 2010)彼は人は常に言葉にできることよりも多くを知ることができ個人がもつ知識には言葉で表現できる部分と言葉で表現できない部分があると唱えた。暗黙知」Tacit Knowingである。わたしたちの底に流れる共通の知。無意識層での知るという行為の結果得られた類の知。

 

 ”言語化されることがない”ということはそれを理解できないということと同義である。人が文明を発達させ哲学的、形而上的思考を展開できたのも全て言葉というツールを利用してきたからであり、もし言葉がなかったのなら、世界はもっと曖昧かつ直接的で”今ここにある存在”ということ以上の認識はされなかっただろう。ただの存在に意味を付与するという行為は当然行われるはずもなく、地球は未だ全域においてネイチャーが圧倒的勢力を持ち続けていたに違いない。もちろんこの”アート”だって、アートのアの字もなかったわけで。とにかくその言葉の発明が思考や概念という”形” ”境界”を生み、文明を築き、今日までより複雑に(少なくとも人の)世界を更新してきたわけである。言葉による影響は計り知れない。しかしこの言葉によって世界のそして宇宙の現実、事実、真理が細分化され分析され解明されていくのと比例して、未だ言葉で表されていないこと、言葉と言葉の間の行間の部分はもはや存在してないこととして人の意識から消えつつあるのではないか。

 私たち人が認識さえできないものはそもそも知り得ないという前提を忘れ、それらに対する敬意を失うという現象は、ここ最近の話ではない。それは人と人とのネットワークが大きくなるのと比例し、自分の生きる世界が自然ではない人工の力で力づくに変えられてしまうような理不尽が世界に生まれてからもうすでに失われ始めていることである。自分の直接関わる範囲の外からの強制的な力が簡単に自分を飲み込んでしまう社会においては感覚をいくら研ぎ澄ましていたってしょうがないだろう。今に始まった事ではない。そんな社会において芸術や宗教哲学科学数学などの学問は強調や発見や明示化することによってその行間を回復する役割を社会の中でになっている。今回の展示もその勢力の流れの中にあることを目指した。明示化されていない、これからもされ得ない類の知の再提示。

 

 しかしそれは存在しているのだ

 

 とても実際的な話でいうならば、わたしには紫外線が見えないしラジオ波も赤外線も超音波も感じられない。それはモンシロチョウやハチドリや蜂やコウモリやイルカには感じられるものだ。よく言われることであるが、わたしは人として耳も鼻も目も悪い。知り得ないことの範囲がただでさえ圧倒的に広い。認識さえできないことは知り得ないのである。

 

 そしてわたしは自分が知らないことを知っている。

 そんな明示化できない類の行間や認識さえもできない行間に対して敬意を払うのだ。

 

 世界は目に見えないことだらけだと思えば、途端に孤独なんてものは感じなくなる。

孤独は人間が社会の中で感じるものなのだ。

社会は確かに孤独ではあるが、社会という機能が目に見えている部分にとどまっている以上、目に見えない、言葉に表せない行間にまで世界は広がっていく。孤独を一体どこに感じればいいのだろう?

 

 

 

今回の反省点としては暗黙知というテーマに呼応する絶対的な回答が示せなかったことである。

暗黙知というテーマは今回の展示に限る話でなく、わたしRikako自身の制作の根幹に関わるものである。であるから、今回の展示は暗黙知の提示というより、わたし自身の立ち位置をわたし自身が再確認するためのものになったように思う。エゴイスティック。結果、ここ3ヶ月で制作した新作のみで構成されたこの展示場は、一人の作家が一つの空間でするべきものではないこの混沌とした空間が出来上がってしまった。ただ これがここ3ヶ月のうちに起こったわたしのリアルであり出来事なのである。

ペインティングとインスタレーションの境界 アートの世界と非アートの世界の境界 

そして暗黙知という考え方がわたしの制作の根幹を成している以上、今回の新作のどれかを排除して空間を整然とさせることはまた違うと判断した。今この空間が混沌としてしまうのなら、それが今の自分の暗黙知についての解釈。制作についての状態なのだろうと.

わたしはこれからどちらに身を置くのだろうか。

2018.7.14

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